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厄年に不運が続くのではと心配な人へ!知人が教えてくれたオススメなこと!

厄年はよく不運が続くと嘆く人も多い。

迷信というけれど、一方で厄年には身体や生活のトラブルも起こりやすいので、注意が必要だとよく言われる。
だから厄年に不運が続く、というのも当たっているのかも知れない。

だとすれば本当に厄払いもすべきなのだろうか?
でもそれで不運が続くのを避けられるかと言えば、これもまた怪しげだ。

実はある知人女性が、ドンピシャリな考え方を教えてくれた。
私自身、厄年については彼女に従おうと思う。
同じように悩んでいる方にもオススメできるので、ちょっとお伝えしてみたい。

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厄年は本当に不運が続くこともある?

その彼女は結構スピリチュアルなことにも明るい女性で、もちろん厄年についてもよく知っている。
その彼女が確かに言っていることとして、はっきり次のようなスタンスを取っている。

「不運が続くこともあるけれど、それは決して厄年自体が何かのスピリチュアル的な要素とか心霊現象を来すのではない。
 あくまでも生活の上でそういう災難とか病気が起こりやすい年を『統計上』で考えてのもの
となる。

よく耳にする話だし、知っている方だって多いだろう。

ただ昔から言う厄年の年齢、つまり女だったら19、33、37そして61歳を厄年(本厄)とする決まり事を今にいたるまで持ち越してしまっているのはどう見てもナンセンスだ。
だから当然と言えるけれど、こういう年回りにピタリと不運が続くとは限らない。

しかしながら、実際にはそれでも
「こういう年になったら不運ってやっぱり続くんだな」
みたいに、病気したり不幸や災難が多くなるという思いをもつ人が多い。

こういう不思議な現象を主張している、そういう人が貴女の回りにもいるはずだ。

なぜだろうか?

これについて彼女もスパッと答えている。
人の思い込みがそういう感じ方をつくってしまうことが多い」
ということだ。
だからそんな厄年の年回りなると余計に不幸な目に逢ってしまうように思ってしまう。

要するに、実際上ではなくて人それぞれの感じ方によって、あたかも“心の厄年”を持つようなことになってしまうのだ。

だから彼女に言わせれば、
「不運が本当に続くかどうかは、人それぞれの感じ方、思い方によるもの」
となる。

このため、中には不幸なことがあったり大きな病気をしたとしても、強い心の人はそれをむしろ
「幸いにもこの程度で済んだ」
みたいにポジティブに考えることだってある。

実際彼女も、
「それが正しい。自分もそうしている」
と語っている。
お札

厄年自体は迷信レベル!でもお参りは絶対オススメ!

ただ、彼女自身はそういうわけでお祓いなどを受けたことはないし、だからといって不運が続くなんてことはなかったらしい。

けれど、それでも神社にお参りは毎年欠かさず行くという。
「正月は有名な神社だとごった返すので、むしろ私は時期を外すけど、別に一年に一度と言わずよくお参りはするね」
と語る。

その彼女が言うには、確かに厄年にもそういう統計的な事実はあるだろうし、だから健康や生活上で気をつけなくてはいけない。
でもスピリチュアル的にはプラスマイナス何の影響もないから、厄払い自体も何の霊的な効果もありはしないと語る。

でも、神社やお寺にお参りするという行為はむしろオススメだというのだ。
ちょっと不思議だが、なぜなのか次に語ってみたい。

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お参りでは厄払いではなく「感謝」を

彼女のスタンスだが、スピリチュアルな力は確かに神社とかお寺の霊的な影響、効果というのは存在する。
まずそれを前提にするのだけれど、といいながら語るのだが、

「そもそも神社の神様には、私たちは日々の生活を守ってくださっている。
だからスジとしてまずそれを感謝すべきではないだろうか?」

ということだ。
普通の人は、神社などに霊的な力なんてない、と考えている人が多いだろう。

けれどもそういう人だっていざ窮地に立たされたり、命の危険にさらさられるような場合には“いざというときの神頼み”。
どうしてもすがっていくものだ。

でも、さらに彼女は主張するのだが、
「実際には人の生死や生活はすべて陰で神様がいつも見守って助けてくださっているもの。
そうでなければ私だってあっという間にこの世から消えていたっておかしくない。
だから神様にはいつも感謝するべきだ。
それが人としてあるべき姿というもの」
ということ。
出雲大社
彼女は毎年のようにある神社にお参りに行くと言うけれど、厄年を迎えた時でもまず感謝のために行ったらしい。

「厄払いといったって、あれは本当に人の気持ちを楽にするだけの“儀式”でしかないから。それよりもしっかり神様に向き合って日頃の感謝の気持ちをしっかり伝える方が何十倍も大切だよ」

厄年には決まって不運が続くと思っている方は、ぜひ一度そういう感謝の気持ちで神社やお寺に詣でてもらいたい、という彼女の話だ。

「感謝して何が利益であるかどうか、などと現実に得することを考えてはいけない。
それよりもあくまで自分はそういう心のあり方をつくるんだ、という気持ちが大切なんだよね」
なんとなく耳が痛いのは私だけだろうか?

むしろその前後の数年間こそが怖い?

けれど、結局のところそういうわけであくまでも厄年というものに自分の心が振り回され、それで気持ちの面から悪い方向に行ってしまうワケだ。

それを避け、気持ちを楽にするという意味では確かに厄払いもある意味効果がある。
でも逆にそういう不安を自分で振り払い、気持ちを強く持つ努力をしてそういう行事をしないで過ごすという努力だって大切なことにもなる。
どちらを選ぶべきか、本当にこれは人それぞれだろう。

そして最後になるけれど、もう一つ、そういう気持ちのあり方についてとても大切なことがある。

それは
「厄年の前や後で安心しすぎたり気を抜いてはいけない」
ということ。

厄年に不運が続くのも、そして厄払いやお参りをしてそれを避けられたというのも基本的に気持ちのあり方の問題だ。

ということは、そういう困った年がまだ巡ってこない時とか、またはその年が過ぎてしまったりした時にはほっとして気が緩みやすくなる。

実際私の周囲の人たちや、またはネットなどでよく見かけることだけれど、そういう風にして厄年の“周辺”に本当に不運が続くことも多いのだ。

極端なことを言うと、厄払いの祈祷の帰りに交通事故に遭ったりする、というもの。
自動車事故に遭った車には、神社仏閣で買ったお守りが並んで飾ってあったというケースもあるようだ。

不運が続くかどうかは自分の気持ち次第。
くれぐれも、そういう年や行事を過ぎて気を緩めすぎたりするのは本末転倒になるから、これだけはご注意願いたい。

山口昌子(やまぐち あきこ)

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