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あの世ってやっぱり存在しない?究極の謎に答えを出してみた!

私たちは死んだらどうなるのか?
「あの世」というところに行く、というのはすぐ頭に浮かぶ。

けれど一方で
「あの世なんて存在しないに決まっている」
という声もすごく多い。

あの世というのは本当に存在しないのか、存在するとしたらどんなところなのか?
こんな究極の疑問を真剣に考えて答えてみた。

本当は存在しないならしないで良いのかも知れない。
けれどそういう死後のことはどうしてもつかみづらいし、変に考え方が偏れば、宗教にのめり込んでしまったり、とリスクが大きいのかもしれない。

そこで「こう考えておけば無害でリスクもないんじゃないの?」みたいな考え方を、回答としてお伝えしてみたい。

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「あの世」は存在するとかしないとか、誰にも分からない

はじめに死後の世界、つまり「あの世」のことだけれど、存在するかどうかは誰にも分からない、と言って良い。
私はそう思っている。

なぜなら、実際に「あの世」があることも、逆に存在しないことも証明できないから。
よく科学的根拠を持ち出して、『「あの世」なんか存在しない』、という主張をテレビなどで見たり聞いたりした方たちが多いにちがいない。
お堂
けれど、そもそもそういう科学者たちが、実際に命を落として、つまり死んでみたけれど、そこで「実際にあの世というものが存在しなかった」ということを確かめたわけではない。
私もよくは知らないのでアレだけれど、科学的なデータの結果を持ち出して、彼らはそう主張しているだけのはずだ。

また、仮にいったん死んで生き返ったことによって、あの世が確かに存在した、存在しない、ということを知ったとしても、どうやってそれを生きている第三者に証明できるだろうか?
結局無理だろう。

だから、詰まるところ
あの世存在するのかしないのかは、生きている誰にも分からないし、自分自身が分かったとしても他の人に証明のしようもない。

ということは、

どうしてもあの世があるかどうかを知ろうとするなら、実際に自分の寿命が尽きて、死んでみて、自分で確かめるしかない。

ということになるのではないだろうか。

存在する、存在しないは個人の考え方次第

それでも多くの人はこう考えるかもしれない。

『科学的に証明できないし、他人に話してもそんな「場所」があると説得できるわけじゃない。ようは人それぞれの考え方次第。個人個人が信じる、信じないの範囲で自分の思う通りに考えていくしかない
ということ。

結局のところ、どんなに私たちががんばってみても、「あの世」が存在しないことも、また存在することも分からないワケだ。

だから、それをあるとかないとか個人個人で様々に考えたり信じていくだけのことになる。

あの世など存在しないことを他人に押しつけられるものでもないし、その人の宗教観とか死生観に合わせて、その人なりに考えていくしかない。

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「こんなことがあった」と、経験で語りかけること「まで」はアリ?

でも、それでもやっぱり人は誰でもいつか死を迎えるから、どうしてもあの世とか死後の世界は人それぞれに気になるはずだ。

なんだかすごく哲学的な、難しそうなハナシになりそうだ。
けれどそうでなく、たとえばいろいろと「その手のこと」を経験したことのある人が、その人なりにあの世が存在しないとかするとかを他の人に話すのはアリだろう。

「その手のこと」というのは、もちろん臨死体験とか、あるいはちょっと眉唾だけれど、心霊体験をしたことがあるとか。

そしてそれを自分自身で聞いて、「ふぅ~ん」みたいに感心するということ。
そこまでのハナシになるけれど、それで納得できれば、それでいいのではないだろうか。

私のまわりにはそんな臨死体験した人とかはいないけれど、心霊体験があると主張する人はいたりする。

心霊体験と言っても、結局のところ証明ができない。
だからその人の単なる「思い込み」「こじつけ」で終わるかもしれない。

そういう人からよく聞くのが、物音とか金縛りとか、つまり「心霊現象」。
金縛り
体験した本人にとっては大変なショックで、それこそパニックに襲われてしまっているにちがいない。

けれど、それをどうやっても証明はできないし、霊とかを信じない人たちには全然取り合ってもくれない。
それどころか、あまりねじ込んで「絶対本当なんだから信じてよ!」と、相手に押しつければよけいにアブナイ女と思われてしまったりする。

でも、そこまでしなくともちょっとした話のネタ程度に、軽く話題を持ち込んで世間話みたいに話すのはアリではないだろうか。
そして、普通はそういう風にして話半分で話題にするのが人間関係を損ねないでおく、一番無難な線ではないだろうか?

証明できないけれど「あの世」を「共有」できれば十分?

というわけで、あの世というものが存在しないとも言えないかもしれないけれど、逆にあると言うことを証明もできない。

だから私たちがどんなにがんばって確認したり実証しようとしたりしても、やっぱりムリと思った方がよい。

でも、よくよく考えてみれば、私たちはある“結果”にたどり着くのではないだろうか。

それは、そういう「あの世」という世界、それが証明できないにせよ存在しないかも知れないにせよ、私たちはそれをある意味承知の上で、これを周りの人たちと話題にしたり、話したりすることがあるにちがいない。

そしてお互いに、実のところはそういう「死後の世界」が、心の片隅、本音としては「存在する」、という意識があるのではないだろうか。
だからこそ話題にも上がるし、自分が死んだ後のことだって考えていたりする。

つまり、あるかないか分からないけれど、そんな「死後の世界」をお互い意識して、そして共有しているのだ。

証明もできないし、行ったこともない「あの世」。
考えてみれば実に不思議な「世界」になるけれど、私たちの心だって目には見えない。

その見えない心で信じているからやっぱり私たちは「あの世」というものと切っても切れないにちがいないし、結局お互いそういうふうに、そんな見えない世界を共有しているにちがいない。
それで世の中丸く収まっているかも知れないけれど、それでよいのではないだろうか。

山口昌子(やまぐち あきこ)

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