厄年に病気になったら、貴女はどう考えるだろうか?
普通だったら厄年というのは古い言い伝え。
何の根拠もない迷信に過ぎない。
たとえその年に病気になったとしても、結びつけないのが正しい、と、頭では理解しているはずだ。
でもいざそこそこに深刻な病気になったなら、厄年とつながりがあるかも、と気にするに違いない。
その気持ちが火種となって思い込んだ結果、本当に災難とか病気を呼び込んでしまうことだってあり得ないことではない。
いろいろな視点から考えてみて、一番
「こう考えるべきだ」
というのは何だろうか?
厄年に病気になった時には結びつけてしまうのが人情?
ただ、厄年に病気になった理災難に遭ったという人は確かに少なくない。
そしてやっぱり厄年と言う特別な時に病気になったりすると、迷信とわかっていながらも何か見えないつながりが自分の受けた災難と関わり合いがあるのだろうか?
と言うように疑いが消えないはずだ。
例えば私の友人には従兄弟の男性がいる女性がいるけれど、その彼が大学を中退した彼は、厄年の24歳の時には東京で一人暮らしのまま、ノイローゼになってしまった経緯がある。
それで実家に帰ってしばらく療養をしていたりした。
彼女が話しているのだが、身から出た錆のはずなのだけれど、なまじ厄年にそういうメンタルの病気になった、と言うことでどうしても何かある、と考えてしまうそうだ。
特に彼の両親とか家族がそうで、従兄弟の彼の尻をたたくようにして川崎大師に厄除けのお参りをさせたとか。
私たちは科学的な根拠などない、と否定していても、それでも何かあるのでは、と心のどこかで疑ってしまう。
それが良いか悪いか、で判断すればもちろん悪いことになる。
現実や本当の病気の原因を直視しないワケだし、そういう病気や災難に遭った原因や理由を、厄年に丸投げしてしまうことになるからだ。
ただ、それでもワンクッション置くようにして、災難や病気で弱り切った心になっている人たちにとっては、ある意味そういう年回りだから、と考える方がたやすく原因を思い当たる。
病気にかかった原因がすぐに突き止められれば苦労はない。
だが、例えばその男性のようにノイローゼとか心の病になってしまうと、治す以前に自分で原因自体を突き止めるのもすごく大変だ。
だからそういう迷信にすがる方が楽、という人情がわいてしまうのかもしれない。
ネガティブな気持ちが不幸を呼んでしまう?
厄年というのはよく体や生活の節目になる。
そんなふうに結構説得力のある言い方もあったりする。
だから、いろいろ変化が起こるので注意しないと災難に遭う、とも言われるし、病気になったりするのもそのためだと言われることが多い。
ただ、実際に病気になった年と厄年が同じだとしても、それはやっぱり「たまたま」になる。
でも、同時にもう一つ、不幸か幸福かという判断など人の心にも大きな影を落とすことを忘れるわけにはいかない。
むしろこういう心への影響の方が深刻だ。
幸せなのかどうか、というのはあくまでも人の気持ちの有り様によって程度も見方も変わるし、どこまでが幸福で不幸なのかは人次第、状況次第だ。
でも厄年にイヤなことが起こったら、やっぱり人情として余計に不運な気持ちわくことになる。
結局そういう気持ちが作用してやっぱり不運なことが多い、と思ってしまうことも多いはずだ。
そしてまた、そういうネガティブな気持ちのままでいるほど、どうしても憂鬱な年回りだと感じてしまう。
そういう心のあり方が続くのは、もちろん健全な生活をにはふさわしくないし、ネガティブな気持ちが続くことで、本当に不幸な目に逢うことだって考えられるのではないだろうか?
心配事というのは実現すると言うけれど、病気になったことも合わせて、あながち根拠のないとも言えない。
心の動きは体や現実に、微妙に作用するからだ。
厄除けのお参りは本当に効果がある?
でも、そういう心のあり方の大切さ、厄年に余計心が落ち込んだ時のリスクを考えれば、厄除けに神社やお寺にお参りに行くのは、決してムダで根拠もないこととは言い切れない。
科学的に根拠のないことだ、と良く言うし、もちろん私もそうだと思う。
けれど、そういう厄年の行事を済ませることが人に安心感を持たせてくれる。
これも一方で確かに言えるはずだ。
そういう意味では決して無駄にはならないし、それで自分の気持ちが満足したり、安心してその年を過ごせるという自信が得られるのだったら、むしろ行ってみるべきだろう。
このあたり、すごく微妙な判断だ。
だからむやみにオススメするわけではない。
中には神社やお寺に行って厄払いや祈祷と重ねたり、お守りをかき集めてみたりする人もいる。
そうしないと気が済まないらしいけれど、それ、結局一種の“依存”でしかない。
そしてまた、病気になったりした時に、そういう厄除けなどが実際に役に立つかは難しい。
けれど、心の有り様に対しては、確かに安心感を期待できるはずだ。
その意味では効果がある、といえるに違いない。
私たちの心は科学とか合理的根拠の杓子定規だけではかれない、そんな未知数の部分が大きいから本当に難しい。
厄年の時に病気になったら、どう考えれば良いのか
そこで最後に、現実と心、ひいては人の体に対して厄年というものをどう考えていくべきか?
大体見えてくるのではないだろうか。
どんな年でも同じだが、やっぱり油断していると病気になったり災難に遭ったりする。
でも、それが特に厄年に起こってしまうと余計に不運に感じて、本気で関連性も考えてしまうかも知れない。
けれど、それでむしろ自分がそういう年回りに影響されてしまうこと。
そうした自分の心の弱さ、流されやすさを実感することができる。
そうなれば、厄年というもの、そしてそれに対するお祓いとか祈祷、お参りなどをどう考えれば良いかは、ひとえに自身の心の満足度、気持ちの有り様を健全に保っていけるかどうか?
それによって決められてくるはずだ。
本当に自分自身の気持ちが休まるのはどうなのか?
それを念頭にして、お参りなどを考えてみれば良いにちがいない。
山口昌子(やまぐち あきこ)