「川崎大師は厄年の厄除けに効き目がある」
というのは関東や近県にお住まいの方に共通の気持ちではないだろうか?
実はちょっと前だけれど厄年(前厄)でちゃんと正月お参りに行った。
なけなしの万札で祈祷代を納め、本堂できちんとお祓いも受けた。
川崎大師は私の家族も厄除け専門のお寺みたいに考えているが、それだけ有名だし、またご利益(りやく)も確かにあるのだろう(たぶん)。
だがしかし厄除けのお参りをした年に、私と待ち合わせていた男性がまさかフッてくるとは、あまりにも言葉が出なかった。
そういうわけで今、心が折れている分よけいに疑問だけれど、
「いったい厄年、厄除けってなんだろうか?」
それをいろいろ探ってみよう。
川崎大師をザックリ×二乗で説明!厄除けに効き目が本当にある?
川崎大師さんに罪があるワケじゃない(当たり前)。
本音的にはやっぱり「恨みたい」気持ちはないわけじゃないけれど、そこはあくまでも自分たちの「やらかし」。
川崎大師様は有り難いお寺!
大人として、ハッキリ分けておかないといけない。
ところで川崎大師というのは、神奈川県川崎区大師町に鎮座し、浅草浅草寺、成田山新勝寺と並んで真言宗智山派の本山の一つに数えられ、「お大師様」という呼び名で親しまれている。
上は川崎大師こと「お大師様」のご案内ブログ。
その霊験(れいげん)もあらたかだから、と私も家族に勧められていたし、神奈川だけでなく、ほぼ関東全域から参拝にやってくる。
もちろん私が厄除けでお参りした年もすごい人出だった。
その参拝者の数、毎年300万とも言われ、明治神宮、新勝寺に継いで全国3位の初詣数ランキングを誇っている。
関西なら平安神宮や伏見稲荷に匹敵するだろう。
そういう場所で厄年の私は、厄除けの祈祷をきちんと行ってきた。
さすがに川崎大師。
厄除けの正月には「三が日」に出掛けて人混み、人混みの波の中。
大変な思いをした。
でもそれだけにご利益(りやく)があるにちがいない!とも思っていた矢先のこと。
でも御利益のあるなしはさておいて、何でよりによって1月とか年明けに彼氏にフラれるのだろうか?
これが本当に分からない。
正月は気持ちの引き締めの時期?厄年も考えようでそれなりのご利益が
分からないと言えば、世の中の動きもここしばらくとんでもないことが続いている。
円安でコロナ騒動がそれだ。
そこに持ってきて一般庶民の男女の出来事、どこかで関係しているような気もしないではない。
その謎を解明するに当たって考えられる原因だけど、こういう風に思う。
一つには、年が明けて新しい気持ちになるべき時期なだけに、それまでの胸のつかえみたいになっていた懸案事項。
それを一気に振り払ってしまおう、という心理も彼の中に働いたのかも知れない。
すごい根拠なさそうな推測だけれど、結構当たっているのではないだろうか。
別れていった彼氏は、別にどちらかが浮気したりとかいうわけでもない。
そこまで関係が冷めていたわけでもないのだ。
それなのに一方的に別れるというLINEが送られてきた。
厄除けのお参りの年、その後にくる節分の2,3日前のことだった。
厄除けしたからと言って、厄年の災難は防げない?
もう過ぎてしばらく経つんだけれど、当時こんな厄年の渦中だった自分は、
「この先どうなっていくんだろうか?」
という先々への心配もフツフツと湧いてきた。
だが、厄年というのはよく考えてみれば分かるけれど、川崎大師や明治神宮など、名だたる名刹で厄除けのお祓いを済ませたからと言って、災難がすべて無くなるわけはないはずなのだ。
人によっては厄除けの祈祷をしたことで、たとえ災難に遭ったとしてもそれ以上に大変な目に遭うことなくすんだ、という考え方をする場合も多い。
厄年というのは出所は定かではないが、古い平安時代くらいに信仰され始めている考え方。
30代の女に絞って言うと、33歳、37歳の本厄になる。
この時期では身体的、生活的にいろいろと災難が降りかかりやすい年ということになっている。
だからそれを避けるために厄払いが必要だ、というのが建前だ。
厄払いをすることで、もっと酷いことになっていたかも知れない災難にあったとしても、それ以上酷くなるのを避けることが出来る。
そういうことを私の親も言っている。
でも考えて見れば。
もっと酷いことになっていたかも知れないケースと、そうでない、つまり厄除けをしていたために軽い災難ですんだケース。
どういう見分け方になるのだろうか?
たとえば厄除けのご祈祷を受けた人であっても、中には災難に遭って落命するような場合もぜったいどこかであるだろう。
もちろん私が行った川崎大師にお参りした人の中にもいるかも知れない。
それでも「軽い災難」といえるのだろうか?
そんな風になんだか四角四面に考えてしまう。
きっと彼氏にフラれたショックがまだ残っているためにちがいない。
お見苦しくて申し訳ありません。苦笑
でも、結局これだけは言えるはずだ。
「厄除けの祈祷をしても災難は降りかかってくるもの」。
厄除けしたからと言って、何でもかんでも安心してよいワケじゃない。
気をつけるべきところは自己責任で、しっかりそうしていく必要がある。
それも、下にも説明してみたけれど普通の年よりももっと警戒する態度が大事だ。
ただ、厄除けのために正月のお参りというのは、実は今回私は初めてだった。
そのためもあってか、厄年とか厄除けとかに対する考え方が甘かったのかも知れない。
厄年の年齢は健康、生活に大きな変動や支障も!注意を促す古来からの知恵
なお、川崎大師に行ったりして厄除けを行うなどのことと関連して、厄年に対する考え方というのは祈祷したか否かよりも確かに大切なものになってくるだろう。
私もこの厄除けを向かえるちょっと前、アラサー突入あたりからなんとなく肌の衰えを実感できるようになってきた。
まだそんな年ではないはず、と思いたかった。
けれど、鏡で自分の肌の様子などをよくよく見たりしてみると、どうしてもちょっと前よりはハリがないな、みたいな悲しい発見に遭遇している。
厄年のお参りは、そういうのもうまい具合に防げればいいな、という下心というか、ムシの良い思い(?)もあった。
ただざっくり女の30代というと、激動が多い年齢になる。
たとえばちょっと過去の話をすると、今の時代のように晩婚や高齢出産ではない昔々だったら、30代の女性は一家の主婦。
一人で姑も家事も切り盛りをし、その上何人も子供をこさえて子育てだ。
今とは別な意味にしろ、とんでもなく激務の毎日で忙しかった。
外で働くご主人を待ちながら、こういうふうに家の中でもてんてこ舞いになっていたはずだ。
そのストレスや過労で、女性特有の病気になったり、また旦那の年齢からしても仕事や生活の変動があったりとする時期でもあった。
特に身体的なポイントを見る限りでも、今と昔はそんなに変わらないから、厄年はそういう警戒の意味も含めて生活や健康に注意するよう促すチャンスになる。
厄年を迎える方は、ぜひとも「役に立つ年」に変えるつもりで
そういうわけで、厄年のためかどうか分からないが、彼氏が現在「元彼」と呼ぶ関係になってしまった。
川崎大師さんには申し訳ないけれど、失恋という「心ボキボキ折れたイベント」とちょうどかぶったことになってしまったし、その苦い思い出が川崎大師という言葉との連想で当分はつきまとってしまうにちがいない。
でも振り返って二人の関係を考えてみると、その「元彼」ともそんな深い付き合いではなかったし、じつのところ
「もしかしたら別れてしまうことになるかも?」
とすら思っていたところもある。
予感みたいなものかもしれなかったけれど、だからそんなに失恋の痛手はないし、泣くほどでもなかった。
だからもしかすると川崎大師様をつうじて、より良い出会いを求めていけるチャンスを作るきっかけになった、そういう前向きになる気持ちもないワケじゃない。
今はまだ心が折れているけれど、そういうわけで本当に人生いろいろだ。
だから、と私が言える立場じゃないかも知れないけれど、これから厄年を迎える方にお伝えしたいのは、
むしろ厄年を「役に立つ年」と考えて、その年やその後、そしてその前後の生活とか気持ちのあり方を実りのあるものにすべき
だろう。
考えてみればあれだけのとんでもない元日の人混みをかき分け、川崎大師にお参りして祈祷したということ。
それはそれで、自分が幸せを求めているという気持ちの強さの表れだと思いたい。
まず有意義に過ごすには、そういう前向きな気持ちこそ大切。
それを忘れずにいることを願いたい。
えがみななみ