他人の不幸は蜜の味、という。
それが実は科学的にも証明されているとのことだ。
元々はドイツのある単語から発生した言葉らしいが、そういう出自はともかくとして、私たちの中には確かにどこかで他人や隣人の幸せをねたみ、不幸を喜ぶような気持ちはあると言い切れる。
でも陰で、そして心の中でとはいえそういう気持ちをいつも持ち続けたり、喜ぼう楽しもうとしてよいものかどうか?
その結論を探ってみた。
他人の不幸は蜜の味、という科学な証明はすでに実証済み
表向きはそういう感情は誰でも隠しているものだが、科学的に見れば実のところ、何年も前に実証されている。
しかも日本国内における科学的な研究の結果によるものだ。
2008年2月、東京医科歯科大や慶応大などが放射線医学総合研究所との研究チームをつくり、MRI(磁気共鳴画像検査)を通じて、妬みと他人や隣人の不幸にたいして人の感情、つまり喜びが脳がどのように作用するかについて研究し結果を発表している。
それによると、まず妬みの気持ちが起った場合、脳の前部帯状回が反応するという。
この前部帯状回というのは体の痛みと関係しているとされる。
つまり妬みは“痛み”と神経が伝える信号は同じ種類といえるようだ。
問題は逆にそういう妬みや不快の対象となる人に不幸や災難が起こったのを知った時だ。
神経系の一種で快感を与えるとされる「報酬系」からドーパミンが多く存在する「線条体」が活動することとなる。
「報酬系」、つまり文字通り“報酬・ほうび”を受け取った時に感じる快感ということだ。
この事実を指して、研究に参加していた放医研主任の高橋英彦氏は
“線条体は美味しいものを食べた時にも働くことが知られている。他人の不幸は文字通り“蜜の味”のようだ”
と語っているのだ。
そしてさらに驚くべきこと。
前部帯状回が大きく活動するほど線条体も強く反応する、という研究結果も出ている。
つまり「妬みの強い人ほど他人の不幸に対して喜びが強い」ということなのだ。
だからといって他人の不幸を喜んで良いのだろうか?
私はそんなに何の宗教も信じていないタチだが、こういう科学的な結果を知った時、
『人間が持って生まれた深い業』
という言葉を思い浮かべずにはいられない。
でも結局そういうわけで、すでに科学的な実証がなされている
「他人の不幸は蜜の味」
という“事実”。
これ自体は本当だと言うことを直視しなくてはならないだろう。
ただ、だからといってそれを促したり薦めたりするのはどうなのだろうか?
もちろんそう言う感情、私自身の中にもあるし、多くの人たちが心の中でどこかそういう気持ちになったり、常に持ったりしていることではあるはずだ。
これについてはネット上でも様々に意見がされている。
それとは別に、私自身の意見として言うならば、結局のところ以下のようになるだろう。
そういう人の不幸を喜ぶ気持ちは誰でも持つものだし、だからこそ他人の不幸は蜜の味、という言葉も広まったことだろう。
そしてこれまでお伝えしてみたとおり、科学的にもそういう体の反応は起きるし、何しろそういう栄養のあるような “栄養のある蜜の味”になるようなわけだから、科学的にも、そしておそらく医学的にもある意味そういう感情を持つことは好ましいと言えるのかも知れない。
だが人の体はそんなに単調な物ではないし、もちろん人の心もそういう他人の歩行を陰であっても喜んで居続けて良いわけは絶対無い。
私がこの点について特に主張したいのは、人というのはこういう側面が確かにあるのと同時に、人の幸せを願う、喜ぶという気持ちもあることをお伝えしたいということだ。
科学的な事実、という事でこの種類の事を申し上げると、たとえば精神医学の第1人者と言われているUCLAバークレー校のスティーブン・ヒンショー教授は、自書Psychological Bulletinで、
“人のためにお金を使うとより幸福になれる”
と語っている。
それ以外にも、人が幸せになるよう祈ることは、幸せになる方法だと言うことはよく聞くことだ。
そこまで単純になれない、人の幸せなんか願っているヒマない、と誰もが思うし、私もそういう気持ちは強い。
ただ、そういう風にして過ごしているような人を見るとすごく会っていて不快になることは少ないし、気立ての良いのは一種の心の化粧のようなものだろう。
別にそういう境地まで行くようにとは私の口からも絶対言うことはできないが、心理学者でもそういう指摘がある。
恨み心を強く持って人の不幸を笑って生きるべきか、それとも自分なりに出来る範囲でそういう風に周囲の人の幸せを願うようにすべきか?
賢明な方だったらどちらが大切なのか、お分かりではないだろうか?
山口昌子(やまぐち あきこ)