運命の人というのは、他の人と何かが違う、ということをよく耳にする。
そのうちで一番大きなものの一つが、安心感。
何もしゃべらなくとも、またたとえ目を合わさないでいても不思議と落ち着く、打ち解けてしまう。
そういう安心感が運命の人の特徴だと。
あくまでも心のあり方だから、微妙な判定にもなる。
けれど、それでも運命の人に安心感を感じるというのは、
「どこか他の人との関係とは違う」
ようだ。
どうやったらそういう出会いにたどり着けのだろうか?
こういう安心感を感じたらそれが運命の人?
運命の人に感じるといわれている安心感。
それがどんなものか、いろいろいわれている。
人によっては元々そういう資質の人だっていたりするし、また自分の思い込み、つまり
「なんとなく安心感をもてる、だからこの人は私にとって運命の人じゃないかしら?」
みたいに思う、または思いたい女性だって多いはずだ。
ただそれはさておいて、運命の人に感じる安心感というのはこういうことのようだ。
・一緒にいるだけで、不安でなくなる、落ち着く。
・心配なく一切を話すことができる。
・懐かしさを感じる。
・不思議と飽きない。
・相手の心が読めるような感じがする。
恋愛中だと、こういう安心感が続かないときというのは確かにある。
一方的に愛情を募らせても相手の方ではなんとも思っていない、体目当てとかで、結局別れ話になってしまったりもするはずだ。
運命の巡り合わせを求めるよりも自分自身を見直すべき?
じゃあ、そういう運命の人とで合うにはどうしたらよいのだろうか?
一口に安心感がある、といってもそれこそ「袖すり合うも多生の縁」とか何やらで、ちょっとやそっとそんな印象を持ったとしても案外知らずに通り過ぎてしまうことだってあったりする。
そんな風にして運命の人との出会いを台無しにしてしまうことこそ一番心配すべきことだろう。
でも、そういうことまでくよくよ心配してもしょうがない。
そうではないだろうか?
あくまでもそういう運命づけられることというのは、自分の意思だけではなんともできないからだ。
それよりも、ぜひそういう安心感を感じる人と出会いたい、というのであれば、そうした“取り越し苦労”をしないでおくことだ。
心配してもしょうがない、焦ってもどうしようもないことは、それをしっかり見据え手しっかり合理的に考え、落ち着くことだ。
その後、普段の気持ちのあり方とか心の持ち方を、自分でできる範囲で正しくしていくこと。
そして女性として、妻になる人間としてあるべき姿を自分で努力してつくっていく。
そういう基本の努力をしっかり見直す余裕を持つべきだろう。
けんかし放題の意外な出会いなのになぜか「割れ鍋に綴じ蓋」の私の両親
運命の人については、当サイトでもえがみななみさんが伝えてくれていたりする。
運命の人の特徴は顔が似てる?表面的なことだけではなく、注目すべきことが他にも!
安心感があるというかどうかはわからないが、運命の人として私も自分の両親がそんな感じの二人だというのは肌身で実感している。
私の両親はけんかばかりしている。
一度など母の方が父に愛想を尽かして家を飛び出し、母型の祖父母と一緒に親族会議(?)して折り合ったようなことさえあった。
それでも父と母は普通にしているときには一緒に外に出歩いたり、買い物をしたりしている姿などを見るにつけ、すごく仲睦まじそうだった。
家の中では逆に延々とけんかしていて、お互い罵り合っていたのがいざそういう外での様子を見ると、
「外で二人がああいう姿になるのは世間体もあるのかな?」
見たく思ったりしたこともあったものだ。
でも、それにしても安心感というよりは横で見ていてほぼ完全に阿吽(あうん)の呼吸。
どっちが本物か、といえば私なりに外での様子がそうなんだ、と思ってしまうのだった。
安心感にはいろいろな形があるかも?
だから本音になるけれど、本当に夫婦の形とか、あるいはそれこそ運命の人どうしが一緒になっているときに見せ合う安心感というのは、単にけんかする、しないでは見分けられないようにも思えてならない。
どうしても家の中にいると、そんなに広い家ではなかったこともあったかもしれない、けっこうお互いの欠陥やあらが鼻についてしまうようなところもあるに違いない。
けれど、それでも運命の人どうしみたいな濃厚な関係になっていれば、そういうけんかそれ自体だってある意味自然に始まって終わってしまう。
そんな二人同士が巡り会うのは困難なのかもしれない。
けれど見ようによっては運命の人というのは私の両親のようにお互いが案外身近にいるべきなのではないだろうか。
そもそも私の両親のような夫婦など、世の中にたくさんいるはず。
だから運命の人捜しなどと気負って考えても、結局は私たちの力の及ばないところで神様が決めている、そういう風に考えた方が肩の力も入れずストレスも楽にすむのではないだろうか?
もちろん私もそうだけれど、30代とかアラサーになってもなかなかよい出会いにつながらない、そういう焦りは誰だって持ってしまう。
でも、そういうときにはやはり先述の通りで、自分自身のことを見直す。
高望みとか、条件を増やして婚活などでのお相手を絞りすぎていないかとか、あるいは結婚相手だけに絞らず、何らかの社会的な活動やサークルなどを考えて、まずは広く人との交流を図る、とか。
ぜひそういう風に一呼吸置いて見てはいかがだろうか。
しかしながらそれでも私の両親はいまだにお互いのすることなすことをあげつらってよくけんかになる。
それでいてしばらくするとすっきりするみたいだ。
私が“割れ鍋に綴じ蓋”ともらすのはそのためだ。
遠藤朱夏(えんどう あやか)